ミュージカルダンサーをやってみた!
ミュージカルダンサーをやってみた!
ミュージカルダンサー。
「コーラスライン」
「シカゴ」
「屋根の上のバイオリン弾き」
「サウンドオブミュージック」
と色々出てくるが果たしてそう簡単に出られるのだろうか?
私の場合は・・と、言うと・・
意外とあっさり出れちゃいました。
その顛末をご覧ください。
そもそものきっかけは、
「芸事をして生きていく!」
と決めた事でした。
ジャニーズ事務所を退所して6ヶ月間は飲食店でアルバイトをし、今後の人生、身の振り方を考えていました。
20歳になった自分の人生のこの先、何をするのか?何をしたいか?を考えていました。
6ヶ月間悩んだ末、出した結論は、やっぱり「ダンス(ダンサー)」と「芝居(俳優)」をやりたいと言う事でした。
ジャニーズ時代、芝居を習っていなかった事、まだまだダンスを踊りたい事、踊れる事、今、辞めてしまったら悔いが残る事。
それらを統合して出した答えが、実家を離れ、一人暮らしをし、アルバイトで食い繋ぎながらでも「芸事をして生きていく」と言う答えでした。
ただ、ジャニーズ時代テレビドラマの出演経験や、近藤真彦、田原俊彦、少年隊、などのバックダンサーの経験も有り、今更
劇団などへ、お金を払って入団する気は無く、どこかの芸能プロに入れないものかと雑誌を読み漁りました。
すると「月刊デビュー」と言う雑誌にに「オーディション」によってプロダクションに入れる記事を発見!
迷わず、即、応募しました。
オーディション当日、100人以上が集まった会場で、芝居とダンスのオーディションが行われ・・1位で合格。
入会金やレッスン料免除で、仮契約しました。
その後、3カ月ほど、毎週土日、芝居と発声とダンスの授業を受けていた頃1本の仕事が決まりました。
それは
「東南アジア向けの東京ディズニーランドのCM出演」
でした。
ゲストが居ないディズニーランドでの撮影のため、ディズニーランドに1週間泊まり込みでの撮影となりました。
「ウェスタンランド」蒸気機関車の撮影では、カメリハ、ランスルー、本番、の撮影で36周乗ったり・・??
深夜のシンデレラ城の撮影では、夜間に空に光る飛行機が写り込んでしまう為「飛行機通り過ぎ」待ち、をしたり月に雲がかかって薄暗くなってしまったので「雲待ち(1時間)」なども経験しました。
その仕事先で出会ったのが俳優・宝田明さんの「宝田企画」に所属しているダンサー兼俳優の方々でした。
意気投合して、話をするうちに、「今度、ミュージカルに出演するんだけど、武ちゃんも出れば?」
と言われ、プロデューサーを紹介して頂き、出演が決定!
何も労せず、ミュージカルに出演する事になりました。
「ラ・ボエーム’85 ミュージカル原宿物語」出演
そして、初めて出演する事になったのがミュージカル原宿物語です。
正式には「ラ・ボエーム’85 ミュージカル原宿物語」です。
脚本演出・松山善三
原曲・ジャコモ・ブッチーニ
主演:野村義男
:伊藤麻衣子
岡崎友紀
曽我泰久
乃生佳之
柳沢超
中野啓介(中野ブラザーズ)
作詞:売野雅勇
音楽監督:甲斐正人
振付:小山雄二郎
なんの因果か? そう言う運命なのか、主演は「野村義男」さん。
&「ザ・グッバイ」の面々+乃生佳之さん、そして「柳沢超」君。??
ジャニーズに入るきっかけが、「よっちゃんバンドのオーディション」なら・・
初めてのミュージカル出演もジャニーズと、ザ・グッバイ絡み。
そして、ジャニーズ時代「ミュージカル・時代はサーカスの像に乗って」に出演した「すっすー」事「柳沢超」君と一緒だとは・・
ビックリです。
それでも、今回は「ジャニーズ」の人間では無くなっているので特に問題なく、(それにしても、よくジャニーズ側からもお咎めが無かったもんだ(笑))
イチ・ダンサー、イチ出演者として1か月にわたる稽古と9日間の本番、12回の出演を果たしました。
11月16日から24日まで中野サンプラザで行われた公演でしたが、実はこのミュージカルの稽古中に別のミュージカル出演オファーを頂きました。
ミュージカル「デュエット」出演
実は、原宿物語の出演中、プロデューサーに呼ばれました。
「武口さん、12月と1月のスケジュールってどうなっています?」
「特に決まっていませんけれど・・」
「実は1月からの日生劇場の西城秀樹さんと鳳蘭さんの「デュエット」と言うミュージカルに出演できるダンサーを探してて、男性ダンサー6人しか出ないんだけど秀樹さんの分身の役だから、背丈とかルックスに合うダンサーを探しているんだけど、武口さんならぴったりなので、スケジュールが合うのならやってみない?」
「はい!やらせてください!」
と、こんなやり取りがあり、あっさり、日生劇場のミュージカルに出演する事が決まりました。
原宿物語出演後、12月になると週に3~5日、稽古が始まりました。
稽古ではまずは、コーラスの稽古。
音楽指導は山口琇也先生。
ピアノを前に一人づつ声楽指導。
何せ「6部合唱」をするのですから、厳しい稽古が始まりました。
私は思っていたよりも声が高いようで「ボーイテノール」と言うソプラノの下を歌う事が決まりました。
ピアノの音と楽譜を頼りに、音を探しながら歌う。
「声が小さい!」「音が違う!」「音が外れてる!」「他のパート歌ってる!」「もう一回!」
と、怒られながら、必死で歌を覚えました。
このコーラスの稽古で無茶苦茶苦労しましたが・・ダンスもしかり。
振付は「山田卓 先生」と言う大先生で日本ジャズダンス協会の会長の方、アシスタントに宮崎渥巳先生と言うこれまた大御所の先生が付いて下さりました。
振付を覚えると、次に「子供が踊ってるように見える!」と叱られ、手のひらを客席に見せる様に踊る事。
動作を早くし、ポーズを0.1秒でも長く見せる様にする事。バレエ的な手の動きを出す事・・
もう数え上げたらキリがないほど叱られました。いや、ご指導いただきました。(笑)
出演者も男性のTOPが関武史さん、榎戸喜章さん、と言うダンスの先生クラスの方と、ベテランの松澤重雄さん、モデルの伊庭直歩さん、宝田企画の渥美直哉さんの両名は新人ながら、ジャズダンスもクラッシックバレエも経験済みでダンスレベルも高い。
演出家は本場ブロードウエイから「アレン・ベルナップ」と言う方が来日。
本格的な稽古になって行くのでした。
主演の西城秀樹さん、鳳蘭さんと、対面する前に大方のダンスシーン、コーラスシーンは完成の領域に入り、お二人が入ってからは芝居を中心にした稽古になりました。
(左から、自分、渥美直哉さん、松澤重雄さん、榎戸喜章さん、関武史さん、伊庭直歩さん)
痛恨の右肩脱臼
忘れられない出来事の一つとして、右肩の脱臼事件が有ります・
なんと舞台の初日、何の事は無いシーンだったんですけれど、車いすに乗ってピアノを弾くシーンがあり、膝にかけていたブランケットを右手で翻すシーンがありました。
稽古通りブランケットを右手で持って右側に持って行った瞬間、右肩を脱臼してしまいました。
しかも、その後はピアノの独奏するシーン。
完全に失敗し・・肩も外れたまんま。
暗転になっても車いすを動かせず・・スタッフに引っ張ってもらう始末。
多大なご迷惑をお掛けしてしまいました。
舞台の袖で、なんとか自分で肩を嵌めましたが、激痛で右手が上がらない状態。
それでも、舞台に出て踊らなければならず、一人だけ振付が間違えているような状態で踊り続けました。
本当に何度も「死にたい!」と思ったほど、人生で一番嫌な出来事でした。
もはや、降板さえ覚悟していましたが、続投。
翌日からはテーピングぐるぐる巻きで踊り続けました。
そんな出来事があったにも拘らず、3月日生劇場公演「プリンセス・モリ―」主演大地真央の出演オファーが有りました。
ミュージカル「プリンセス・モリ―」出演
「武口君、怪我大丈夫?」
「はい、ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。」
「もし、スケジュールが大丈夫なら、2月稽古で3月からの日生劇場の公演、出て欲しいんだけど・・」
「い、いいんですか?! 喜んで」
と、言う感じでそのまま3月の日生劇場公演に出演が決まってしまいました。
若さって怖いね。
当時20歳。
夢と希望しかなかった時代でした。
プリンセスモリ―は何と言っても「大地真央」さん。
宝塚退団後の初のミュージカル出演と言う事で話題になりました。
実際にお会いして、その容姿、ダンス力、演技力、センス、人間性、すべてに置いて「本物のスター」と言う実力を見させて頂きました。
男性6人女性6人のミュージカルから、総勢40人のミュージカルになり、華々しく楽しい仕事でした。
そして、演出、振付がブロードウェイから来日した「トニー・スティーブンス」さん。
本来、この作品には無かった「役」を私の為に作って下さいました。
酒場のシーンでは、私が若く見えるので「酒場に入りたいけど、追い出される地元の少年の役」を創作演出して下さり、全員で踊るシーンでは、原作には無いブレイクダンスを踊るシーンを作って下さいました。
ダンサーの「西川純代」さんと絡みで踊らせて頂きました。
日劇TOPダンサーの「西川純代」さんと。
そして、大地真央さんには何故かとても可愛がって貰いました!
真央さんを「アニキ!」と呼んで慕っていましたが、ある日突然・・
「たけちゃん! 来月私のリサイタルやるんだけどダンサーで出ない?」
と、ご本人から直接オファーを頂き、「大地真央ファーストリサイタル・カフカの夢」東京公演、大阪公演出演が決定しました。
プリンセスモリ―出演後、4月、5月は大地真央さんのリサイタル出演が決定。
そのまま、7月・日生劇場公演、大地真央主演・野田秀樹演出「十二夜」までも出演が決定しました。
大地真央さんのリサイタルで振付家「謝 珠栄」先生と出会い、そのままミュージカル「十二夜」でもご指導頂きました。
野田秀樹の十二夜
日生劇場7月公演・野田秀樹の「十二夜」出演が決まりました。
稽古が始まると、野田秀樹さん独特の稽古と演出が始ました。
スローモーションで歩く稽古、歩きながら、走りながらセリフを言う稽古。
おおよそ、台本には無い稽古をして、面白ければそれを挿入したり、運動会のような忙しさでした。
「ダンス」と呼べる「ダンスナンバー」が無く、「振付家・謝珠栄」さんと演出家・野田秀樹さんとの駆け引きもあり、
最初に完成した作品は3時間を超える物になりました。
舞台の初日前に、作品を2時間30分前後にする為にどこを削るか?で揉めたのを覚えています。
この作品に出演していた「ジャパンアクションクラブ」の方々との交流で私は、その後ミュージカルに出演するのを辞める事にしました。
「ジャパンアクションクラブ」通称「JAC」
俳優・真田広之さん、志穂美 悦子さんを輩出した千葉真一さんが創設した世界で通用するアクションスター・スタントマンを育成・輩出するため、のプロダクションです。
ここに在籍する14期生、15期生と呼ばれる方々とご一緒させて頂き、そのレべルの高さに驚愕しました。
ダンスは謝珠栄先生が担当し、ほぼ全員が踊りに対してその実力を持ち合わせ、アクロバット、殺陣(たて)、芝居、ちょっとしたモノマネやお笑いなどのセンスを持ち、言えば何でもやるし出来てしまう。
この十二夜と言う作品でも、その身体能力は大いに発揮され、体操選手なみのアクロバットや一瞬にして、タワーやピラミッドを組んでしまう創作演出まで、何でも熟してしまいました。
今後、ミュージカルをやるのであれば、彼らに匹敵するだけの身体能力を備えるか、ずば抜けた演技力、歌唱力、もしくはダンスセンスを持たないと生き残っていけないと思いました。
ミュージカルの「アンサンブル」をやるにしても今のままでは力量不足。
実力のない自分がミュージカルに出演する事に違和感を感じました。
また、私がやりたかった、イメージしていた「ダンサー」と言う仕事とはちょっと違いました。
丁度、ディズニーの仕事から1年。
4本のミュージカルと、1本のリサイタルに出演しました。
もしも、ミュージカルに出演するのであれば今度は「役」の付いた出演者になりたい。
と、私は思いました。
もっと精進して、芸を磨いて、舞台に立てるようになりたい。
最初は元気さと勢いで「出れてラッキー!」と言う感じでしたが、この1年でその気持ちはもっと精進しなくては恥ずかしい。
と、言う気持ちに変わりました。
また・・
「大きな舞台の片隅で、どこの誰だか解らないダンサーでいるよりは、小さな舞台の真ん中で自分の存在を示せるダンサーになりたい」
と、言う野望も持ち始め、それが私の次なる目標になりました。
所属していた芸能プロダクションにも不満が有りました。
本来、舞台が決まれば、稽古初日、稽古の中日、舞台の初日、中日、千秋楽に挨拶に来るのが芸能プロダクションとしては当たり前ですが、私の所属していたプロダクションは挨拶に来ませんでした。
何度かその事を、制作側の方から指摘される始末。
私はプロダクションを退所しました。
そして、ミュージカル出演もこうして終わりにしました。
ミュージカルダンサーをやってみて・・
ジャズダンス、クラッシックバレエ、声楽、演技、殺陣、アクロバット・・
すべてに置いて、実力を高めなければ、生き残ってはいけない。
そして、お客様に対して恥ずかしい物は見せられない。
そんな当たり前のことに気が付かさせて貰いました。
と、同時に、「人」との繋がりで仕事が回ってくる事がこんなにも多いと気が付きました。
沢山の方々にお世話になり心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
皆々様のご活躍をお祈り申し上げます。
西城秀樹さんの訃報がありました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。