Johnny's

追悼!さよならジャニーさん。

たけJI

追悼!さよならジャニーさん。

2019年令和元年7月9日、くも膜下出血のためジャニーズ事務所代表取締役「ジャニー喜多川社長」通称ジャニーさんが亡くなった。

87歳だった。

本名 :喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉

世間でも、ニュースでも、もはや、ジャニーさんに関する話は出尽くしている感があるので今更私が書く事は無い。

ましてや、一(いち)、ジャニーズジュニアだった人間ぐらいごまんといる。

そんな人間であり、社会的な成功をおさめて居るわけでも無き一般人である。

とは言え、お世話になって、私が「普通」とは違う人生を歩むきっかけになった人である。

追悼の意味を込めて、思い出と共に書き綴ってみたい。

 ジャニーズから来た一通の手紙とオーデション

私がジャニーズに入ったのは、高校2年生の3月だった。

ある日自宅に郵便物が届いた。

黄色い封筒で差出人の欄には「株式会社ジャニーズ事務所」と書いてあった。

封を切って中をのぞくと、一通のプリントが入っていた。

「よっちゃんバンドメンバー募集!・オーデションのお知らせ!」

とあった。

1年前、友達と一緒にジャニーズに履歴書を送った。

特技の蘭に「ギター」と書いたのを思い出した。

半日、行くべきか?それともやめようか迷った。

「やらなければ後悔する」

その気持ちだけが残った。

翌週の日曜日、赤坂TBS会館に向かった。

会場の入り口で住所や名前を確認して番号が書かれた名札を貰った。

番号は128番だった。

100人以上、若くて、ミュージシャン風の格好をした男の子が集まっている。

「こりゃ、無理だなぁ。」

そう思った。

順番が来るまで、客席でオーデションの様子を見ていた。

ギターを演奏する者、キーボードを演奏する者、弾き語りをする者・・

皆、それぞれ高いレベルで演奏をしている。

「こりゃぁ・・ギターを弾いても滑稽なだけだなぁ」

と思った。

自分の番が来た。

ステージの真ん中に立った。

「何を演奏しますか?」

と聞かれ・・

「歌を歌います!」

と答えた。

TBS会館のステージの上で僕はイルカさんの「なごり雪」を熱唱した。

伴奏は「やっちんさん」事「曽我泰久」さんがしてくださった。

歌い終わると、開口一番で質問された。

「ユーは何がしたいの?」

マイクを通して質問したのは「ジャニーさん」だった。

「僕は、歌って、踊れて、ギターも弾けるアイドルになりたいです!」

と答えた。

「特技の欄にギターって書いてあるけど、ギターは弾けるの?」

「はい。弾けますが、コード進行を抑えられるぐらいで、下手くそです!」

と答えると・・

「ユーは、ジャニーズジュニアになりなさい!これが終わるまでロビーで待ってて!」

これが、私がジャニーさんと初めて交わした会話だった。

そして、ジャニーズジュニアになった瞬間だった。

ジャニーさんに連れられて

オーディションが終わるまでロビーで待っていた。

すると、ロンドンブーツにラッパ型のスラックスを履いた「おじさん」が野村義男さんと共に歩いてきた。

「ユーは時間大丈夫?」

開口一番、そう聞かれ「大丈夫です!」と答えた。

よっちゃん事、野村義男さんと軽く会釈し、その場で別れた。

「ユーはついてきて!」

と、言われジャニーさんに付いて歩き始めた。

TBSのテレビ局の中に入って行く。

僕はジャニーさんに置いて行かれないように横に並んで歩いた。

「ユーは何歳だたっけ? 」

「17歳です。」

「ユーはどこに住んでるの? 」

「神奈川県川崎市です。」

矢継ぎ早な質問に答えながらTBSテレビの中へと進んで行く。

「川崎からだったらレッスンに通えるね?」

「はい! 大丈夫です! 通います!」と答えた。

ジャニーさんからの質問を聞き漏らさないよう必死だった。

ジャニーさんの歩く速度は早い。

そしてようやく会議室のような所へ辿り着いた。

ジャニーさんが扉を開ける。

すると、テーブルと椅子を会議室の後ろへ押しやったスペースで、カラフルなレッスン着を着た15人位の少年がいた。

「おはようございます! 」

とジャニーさんに大きな声で挨拶をした。

僕は10人以上いる少年を食い入るように見つめた。

見覚えがある。

一番前で踊っているのは、「ジャニーズ少年隊」と呼ばれている3人組だ。

錦織一清君、東山紀之君、植草克秀君、の3人と、のちに光Genjiになる大沢樹生君、内海光司君、忍者になる柳沢超君、正木慎也君、等のジャニーズジュニアだった。

「彼は今週からレッスンに出るから!」とジャニーさんが紹介をしてくれた。

ジャニーさんが僕の方に振り向くと「毎週日曜日、TV朝日の第一リハーサル室でレッスンしているから、ユーも来なさい!」

と言った。

「はい!」

と答えると、

「あっ!」

と、時計を見て声を出した。

「今、俊がリハやってるんだっけ? ユーはまだ時間大丈夫? 」

と聞かれた。

「はい。大丈夫です!」

と答える。

「じゃあ、テレ朝行こう! 俊がコンサートのレッスンしているから!」

自分の耳を疑った。

「俊」って、あのスーパースター「田原俊彦」の事だろうか?

ジャニーさんが笑っていた。

てっきり、タクシーで行くものだと思っていたが、駐車場に止めてある外灯に照らし出された白いベンツの前で止まり、おもむろにキーを取り出して乗り込んだ。

「ユーはこっちに乗りなさい!」と言われて助手席に乗り込んだ。

初めて乗ったベンツは乗り心地はこの上無く快適だった。

当時はまだ世の中に携帯電話など無かった時代である。(1982年)

しかしジャニーさんのべンツには移動式の自動車電話があり、それは肩から掛けてショルダーバッグのように持ち運び通話する事が出来る携帯電話だった。

それを見て「凄い! 芸能界の社長になると凄いんだ!」と思っていた。

赤坂から10分ぐらいで六本木のテレビ朝日に到着をした。

今は六本木ヒルズに変わっている場所である。

ベンツの前に重々しい鉄の移動式の門が立ち塞がっていた。

警備員が近づいてくる。

窓を半分開けると厳かに言った。

「ジャニーだけど!」

それを聞くと警備員は機敏に動きゲートを開けた。

ジャニーさんのベンツはテレビ朝日の敷地内に滑り込んだ。

入って直ぐの場所にベンツを停めると右側にある、3階建てのボロボロのプレハブの建物の非常階段を上がって行く。

非常階段をジャニーさんの後について登って行き鉄の重い扉を開ける。

すると中から、「マイケルジャクソン」の「ジャクソンズ・メドレー」が聞こえた。

張り詰めた空気、踊る5人の男性、その真ん中に、赤いスウッエットの上下を着た見覚えのある人がいた。

「田原俊彦だ!」

そして、その周りにいるのは「ジャPAニーズ!」だった。

ジャニーさんがスタジオの片隅にパイプ椅子を用意してくれた。

そこに座るように促され、僕はパイプ椅子に座った。

練習をしている5人以外は、先ほど電話したマネージャーらしい人が1人いるだけだ。

5人の息の揃ったダンスが目の前で繰り広げられている。

そのレッスンを見ている事が信じられなかった。

時間が経つのを忘れ見入っていたが、急に音楽が途切れた。

「休憩にしたら! ご飯食べない? 弁当あるから! 」

ジャニーさんが声を掛けた。

張りつめた空気が急に和やかな雰囲気に包まれた。

ジャニーさんがこっちを向いて言った。

「ユー、あっちに給茶機があるからお茶を5つ持ってきて! 」

「は、はい! 」

僕は慌てて席を立った。

ジャニーさんが指差した方向に給茶機があった。

僕は紙コップにお茶を注ぎ、近くにあったお盆に5個の紙コップを載せて食事をしている5人のもとに運んだ。

真っ先に「俊ちゃん」の元へお茶を運んだ。

「失礼します。お茶です。」

当たり前の事を言って、恥ずかしさを覚えた。

お茶を配り終えるとジャニーさんが言った。

「ボビー! 彼、今度ジュニアに入ったから! 」

唐突な紹介に戸惑った。

「よろしくお願いします! 」

ボビーさんが、軽く会釈してくれた。

「来週の日曜日、1時からここでレッスンがあるから」

とジャニーさんが言った。

以降、毎週日曜日「テレビ朝日の第2リハーサル室」に通う生活が始まった。

いつも直電だった

こうして、私はジャニーズに入りジャニーズジュニアになりました。

と、言っても、特に書類を交わした事も無く、給料が貰えるわけでも、レッスン料を払うわけでもなく・・

口約束のような流れでした。

毎週日曜日、13時にテレビ朝日の稽古場に通っていましたが、当時は30人~40人ぐらいのジャニーズジュニアが居ました。

特に一人一人紹介される訳でもなく、いつの間にか仲良くなったり、いつの間にかいなくなったり・・

5,6回レッスンに通っていると、ジャニーさんから家に直電が来ることが有りました。

「もしもし、ジャニーだけど」

と言ってかかってくるので毎回びっくりしていました。

大体「ユーは、今週の何曜日、何時から、時間大丈夫?」

と、スケジュールを確認した上で、「TBSの新番組で少年隊の後ろで踊れる?」

とか、「シブがき隊の番組で踊って欲しいんだけど」とか

「TBSのドラマのオーディションがあるんだけど、ユーは来れる?」

など、毎回スケジュールはジャニーさんからの直電でした。

携帯電話が無い時代だったので当たり前ですが、家に人が居ないと大変でした。

当時のジャニーズと時代背景

私がジャニーズジュニアだった頃(1982年)はジャニーズはこんな感じでした。

所属し、会ったことがあるのは・・(敬称略)

〇 ひかる一平
〇 田原俊彦
〇 近藤真彦
〇 野村義男(「THE GOOD-BYE」デビュー前)

〇シブがき隊(布川敏和 、本木雅弘 、薬丸裕英 )(デビューし、新人賞を獲った年)

〇ジャニーズ少年隊(後の少年隊)(錦織一清、植草克秀、東山紀之)(デビュー前)

〇イーグルス(中村繁之 、宇治正高、内海光司 、大沢樹生 )デビュー前(少年隊ジュニアと言う名前の頃)

ジャニーズジュニア

佐藤寛之、成田昭次 、柳沢超 、遠藤直人、正木慎也 、高木延秀、三好圭一

などが居た。(他・多数)

〇初めてレッスンに行った時にはひかる一平もレッスンに出ていた。

〇入った3か月後にTBSのピンキーパンチ大逆転と言う番組で「ジャニーズ少年隊」のバックで踊ったのが初出演・初仕事。

〇秋・シブがき隊の「レッツ・GO・アイドル」と言う番組が始まり、その後ろで踊っている。

〇シブがき隊が「100%SOかもね」で音楽祭などで歌うたびにバックで踊っている。

歴代・ジャニーズグループ

1964年「ジャニーズ」

飯野おさみ
真家ひろみ
中谷良
あおい輝彦

1968年「フォーリーブス

北公次
青山孝
江木俊夫
おりも政夫

1968年「ジャニーズ・ジュニア・スペシャル」

板野俊雄
畠山昌久
林正明

1975年「リトル・ギャング」
松原秀樹
曽我泰久

1975年「VIP」

板野俊雄
畠山昌久
林正明
河村信子
吉本和子

1978年「スリーヤンキース」

橋本美砂子
川崎志津子
松尾貴子

1980年「たのきんトリオ」

田原俊彦
近藤真彦
野村義男

1982年「シブがき隊」

布川敏和
本木雅弘
薬丸裕英

1982年「イーグルス 」
中村繁之
宇治正高
内海光司
大沢樹生

1983年「THE GOOD-BYE」

加賀八郎
曽我泰久
衛藤浩一
野村義男

1985年「少年隊」

錦織一清
植草克秀
東山紀之

1987年「光GENJI」

内海光司
大沢樹生
諸星和己
佐藤寛之
山本淳一
赤坂晃
佐藤敦啓

1988年「男闘呼組」

成田昭次
前田耕陽
高橋一也
岡本健一

1990年「忍者(少年忍者)」

柳沢超
遠藤直人
正木慎也
高木延秀

1991年「SMAP」

中居正広
木村拓哉
稲垣吾郎
草なぎ剛
香取慎吾

1994年「TOKIO」

城島茂
山口達也
国分太一
松岡昌宏
長瀬智也

1995年「V6」
坂本昌行
長野博
井ノ原快彦
森田剛
三宅健
岡田准一

1997年「KinKi Kids」

堂本光一
堂本剛

1999年「嵐」
大野智
櫻井翔
相葉雅紀
二宮和也
松本潤

2002年「タッキー&翼」

今井翼
滝沢秀明

2003年「NEWS」

小山慶一郎
増田貴久
加藤シゲアキ
手越祐也

2004年「関ジャニ∞」

横山裕
渋谷すばる
村上信五
丸山隆平
安田章大
錦戸亮
大倉忠義

2005年「KAT-TUN」

中丸雄一
上田竜也
田中聖
田口淳之介
亀梨和也

2007年「Hey! Say! JUMP」

薮宏太
高木雄也
伊野尾慧
八乙女光
有岡大貴
岡本圭人
山田涼介
中島裕翔
知念侑李
森本龍太郎

2009年「中山優馬w/B.I.Shadow」

中山優馬
高地優吾
中島健人
菊池風磨
松村北斗

2010年「Kis-My-Ft2」

北山宏光
横尾渉
藤ヶ谷太輔
宮田俊哉
玉森裕太
二階堂高嗣
千賀健永

2011年「Sexy Zone」

中島健人
菊池風磨
佐藤勝利
松島聡
マウリス葉

2011年「A.B.C.-Z」
五関晃一
戸塚祥太
塚田僚一
河合郁人
橋本良亮

2014年「ジャニーズWEST」

中間淳太
濱田崇裕
桐山照史
重岡大毅
神山智洋
藤井流星
小瀧望

2018年「King & Prince」

平野紫耀
永瀬廉
高橋海人
岸優太
岩橋玄樹
神宮寺勇太

*尚、他グループとの再結成等は除いております。
(J-FRIENDS、トラジ・ハイジ、修二と彰、GYM、テゴマス、トリオ・ザ・シャキーン、舞祭組(ぶさいく)等)

*ピンク色の枠内のグループが関わりのあった方々。若しくは後ろで踊らせて頂いた方々。

その後と思い出

私はその後・・TBSのテレビドラマに出演させて頂いたり・・

私、小暮君、鈴木君、柳沢君らと、ミュージカルに出演させて頂いたり・・

色々な仕事をさせて頂きました。

最後、「ユーは、車の免許持ってるよね?」

「ユー、うちでマネージャーやらない?」

「ユーは、マネージャー向いてると思うんだけどなぁ・・」

と、言われたのが最後の会話でした。

それが19歳の秋の事でした。

その言葉に沿う事が出来ず、ジャニーズ事務所を退所しましたが・・

もしも、あの時、ジャニーさんの言葉に従っていたら・・

果たして自分はどんな人生を送っていたのだろうか?

ジャニーズ事務所退所後、プロダンサーを目指し・・

ミュージカルに出演したり、お笑いタレントをやったり・・

ショーダンサーとして踊り続けていました。

いつでも、思い出すのが・・

「ユーは、もう、アイドルなんだから・・」

と、煽ててくれるセリフと‥

「ユーたち、後ろで踊ってる時に苦しそうな顔してどうするの?いつも笑ってないとダメだよ!」

と、叱られた事。

あれ以来、笑顔で踊る習慣が身に着きました。

もう、50歳を過ぎて、芸能関係とは関わっていませんが・・

2年前、「恩師ボビーさんの結婚40週年パーティーに顔を出させて頂きました。

82、83年頃のジャニーズジュニアが集まりました。

ジャニーさんが居なければ会う事が無かった仲間たち。

デビューする事が無かった「4デイズ」(鈴木君、小暮君、柳沢君)

49歳まで踊れたのはあなたのおかげです。

「ありがとうジャニーさん」

どうぞ、安らかにお眠りください。

ABOUT ME
記事URLをコピーしました